♭無手勝流「インタビュー世論調査」を敢行
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9月1日、午後9時半──。福田康夫内閣総理大臣の辞任会見以来、テレビをはじめとする各メディアは、政権の話題でもちきり。芸能人や文化人のコメンテーター、野党議員、マスコミの解説委員、政治評論家までが、そろって安倍氏辞任になぞらえた「突然」と、福田氏の「無責任論」の大合唱。若者やネットの世界では「あなたとは違ってね」が流行語になるというおまけもついた。
◆ときには新聞「紙」を読もう
翌朝9月2日の全国新聞各紙は「福田首相辞任」の記事がトップに踊り出た。各紙をざっと見て印象的だったのは、各紙の1面で、社説とは別に、政治部長論など責任ある立場の人の署名記事が掲載されていたことだ。
例えば──
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│日経新聞│麻生後継へ「あうん」の呼吸 │
│ │ 客員コラムニスト 田勢弘康 │
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│産経新聞│あの強い政治家どこへ〜首相退陣に思う │
│ │ 論説委員長 皿木喜久 │
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│読売新聞│政治の責任自覚せよ 政治部長 赤座弘一 │
├────┼────────────────────┤
│毎日新聞│信念なき政治の漂流 政治部長 小松 浩 │
├────┼────────────────────┤
│朝日新聞│野党に譲って民意を問え 編集委員 星浩 │
└────┴────────────────────┘
(2008年9月2日 東京・朝刊)
傍目(はため)には突然に見えても禅譲を前提に周到に考えた決断であることを指摘したもの(日経)をはじめ、吉田茂元首相を題材にしたエッセイ風の記事(産経)、民主党を含めた政治全体の責任を問うもの(読売)、固い信念をもって国家を率いる指導者を持たない日本国民の悲劇を謳うもの(毎日)、野党に政権禅譲すべきと意見を明確にしたもの(朝日)と、タイトルからも、それぞれの論調の違いが読み取れると思う。
新聞の購読者数は減少し、ネットニュースやTVのニュースワイドが幅を効かせる昨今。ニュースを断片的にとらえることが日常的になってしまったが、新聞を手にとってみると、今回の福田首相辞任のニュースでも、1面では会見の趣旨を伝え、政治面では詳細な会見の要旨や解説、支持率・政権の歩みなど、社説で新聞社としての意見を表明、そして社会面で町の人や識者のコメントを伝えるなど、1つの事柄について立体的に報じていて、考える材料を提供してくれる。ましてこうして読み比べしてみると、各社の報道姿勢が読み取れるほか、行間(脈略)から真実に近づくことができる。
複数の新聞を読み比べするにはたいへんな時間と労力が必要だが、あらためて新聞の使命(*)を評価したいと考えた。
*「おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。」(新聞倫理綱領より)
◆解散・総選挙ではなく、野党への禅譲を進言?
ところで、報道ステーションやサンデープロジェクトなど、テレビでもおなじみの朝日新聞星浩編集委員の記事を読み返して、目を疑った。
「自民党がいま、国民のためになすべきことは、自民党内の政権のたらい回しではない。民主党に政権を譲り選挙管理内閣によって、衆院の解散・総選挙で民意を問うことである。国民の手に『大政奉還』して、新しい政治を築き上げる時だ。」(朝日新聞東京本社2008年9月2日朝刊「野党に譲って民意を問え 編集委員 星 浩」より)
…………? さらっと読み飛ばした人は、もう一度読み返して欲しい。
解散・総選挙によって民意を問うのではなく「民主党に政権を譲り選挙管理内閣」と明言している。つまり、我々が中学の社会(公民)の授業以来持ち続けている常識(=議会制民主主義の我が国では、衆議院で多数を占める政党が政権を担当する)とは異なる内容だった。
星氏の論評は何度読み返しても、“福田氏は解散・総選挙で民意を問うべき”ではなくて、“まずはいったん民主党に政権を禅譲するべき”である。戦後民主主義のもとに生きている我々には、到底受け入れられないのではないだろうか。
しかし星氏の筆は、次のようにすすむ。
「自民党が誕生する前の保守政治の歴史には、時の政権が行き詰まったら『憲政の常道』として、野党第1党に後を委ねる慣行が成立していた時期もある」(前出)と補足されている。
「憲政の常道」を調べてみると、「二大政党の党首が交互に首相となることを立憲政治の当然のあり方とする考え方。第一次護憲運動のとき、超然内閣に反対して主張された」(デジタル大辞泉 小学館)とあり、大日本帝国憲法下の慣例でしかないことが判った。また現行の日本国憲法下でも持ち出された例はあるようだが「内閣の失政による総辞職」が要件であるため、今回の福田辞任はこれに当たらないだろう。
星氏の文章を読んだ当初、(夜の会見で朝刊の締切時間に制約があったため)整理部でのチェック漏れかとも考えたが、どうやら政党政治の歴史を熟知したうえで福田首相の「失政」を(ご自分の判断で)既定のものとし、周到な文章のもとに(選挙以前の)「民主党への政権禅譲」を提言したことになる。しかし「憲政の常道」という伝家の宝刀を主張できるのは野党第1党である民主党自身であって、国民ではない。つまり、星氏は、新聞という社会の公器を使って民主党代表へのメッセージを送ったのではないかとも考えられる。
◆民主党代表小沢一郎氏の発言も「憲政の常道」に呼応
星氏の提言との関係は不明だが、会見の翌日の午前10時から民主党本部で開かれた緊急の幹部会の席上、「小沢氏は『福田政権が行き詰まったわけだから、憲政の常道として、野党へ政権を譲るべきだ。そうでない場合は、一刻も早い衆院解散・総選挙で国民の信を問うべきだと主張しよう』と述べた。幹部会はこの小沢氏の発言を了承した。」と伝えられている(Yahoo!ニュース/9月2日11時53分配信/産経新聞)。また、民主党ホームページのニュース(2008/09/02)でも「憲政の常道を踏まえれば、福田政権が行き詰まったからには、野党に政権を譲れと主張することが大事だとの認識を示し……」とある。
つまり、我々国民は、選挙によってではなく、戦前の慣例「憲政の常道」によって、政策論議に触れる機会も、政権を選ぶ権利をも奪われていた可能性もあったということらしい。しかし各マスコミもほとんど取り上げなかったところをみると、また民主党もその後、声高に主張していないところをみると、さすがに「憲政の常道」による野党への政権禅譲は、(支持政党に関わらず)現在の国民意識と乖離していることを理解しているようだ。
言論・表現の自由において、また法的な解釈において、星氏の論説は問題がないのかもしれない。
しかし、それでは、前回の衆議院選挙で自民党を第1党とした「民意」はどう解釈されているのか。ここでは衆院選と参院選の重みの違いには言及しないとしても、現在の「ねじれ国会」状態について、議論をすすめるという意味で、歓迎する民意の表れと考えられるのではないか。
いまの我が国のおかれている危機的状況のもとで、新聞の公共的使命に立ち帰るとき、主権である国民の立場を忘れ、「一定の政治的意図」に基づいた論評が「正確で公正な記事」といえるのか、その新聞人としての見識に、はなはだ疑問が残る。
この記事は「民意を問うため」に判断材料を国民に提供することよりも、自身(もしくは自社)の主義主張で世論誘導を図り、巧妙なすり替えがなされているようにも見えるのだ。
◆ 品格あっての表現の自由と報道姿勢
メディアウォッチを始めてから、テレビ局や新聞社、また番組や媒体ごとに一定の方向性や意図のもとに、制作されていることが判ってきた(意図的に報道しないことも含めて)。マスコミに限らず、我々国民には、言論・表現の自由があるが、それは新聞倫理綱領が謳うように「すべての新聞人は(中略)読者との信頼関係をゆるぎないものとするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない」ことが前提だろう。
今回の記事に限らず、朝日新聞やテレビ朝日には、偏向報道や姿勢が指摘されることが多く、ネットの保守系ブロガーたちからは「アカヒ」と揶揄されている。このほか、元朝日新聞記者の稲垣武氏が書いた『新聞・テレビはどこまで病んでいるか』(小学館文庫)をはじめ、『これでも朝日新聞を読みますか?』(山川澄夫著・ワック)、『「モンスター新聞」が日本を滅ぼす』(高山雅之著・PHP出版)、『朝日新聞の大研究』(古森義久他著・扶桑社)など、出版の世界でも朝日新聞の報道姿勢に対する批判は枚挙にいとまがない。
また、去る6月6日、「朝日新聞とテレビ朝日が資本提携強化」というニュースが入ってきた。今後、報道ステーションなどテレビ朝日系の番組では、朝日新聞との連携が強化され、いっそう一定の方向性に沿った報道(見方によっては偏向)がなされていくことだろう。
解散・総選挙を目前に、批判的視点をもって新聞やテレビのニュースに接するべきだという意を強くする。また我々は、「国民の知る権利」に奉仕するという報道の使命に期待している。しかし新聞社やテレビ局は私的企業でしかない。せめてマスコミ人としての品格に立ち帰ってほしい……と考えるのは、横綱の品格と同様に夢物語か。
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